近田春夫さんが語るイエロー・モンキー

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週刊文春(2000年/文藝春秋)に掲載された、近田春夫さんのコメントをご紹介します(以下、イエロー・モンキーについてのコメント全文)。様々なアーティストの曲を近田さんが批評する週刊文春の人気連載・「考えるヒット」において、「BRILLIANT WORLD」が取り上げられ、近田さんのイエロー・モンキーへの解釈が語られました。GSの歴史となぞらえた興味深い見解となっていますので、全文掲載します。

近田さんは他にも、連載331回目でロビンのYOSHII LOVINSON名義の楽曲「TALI」も取り上げ、コメントされています。

「今回のイエモンには、GSの歴史を思い起こさせる何かがあるのだ」
今回のTHE YELLOW MONKEYは、ちょっと感じが違う。妙にマイルドである。

演奏に際立った特徴を持っていないせいだろうか。何だかフォークシンガーとそのバックバンドのような、プレイヤーが途中で入れ替わっても気付かないかも知れないような、上手だけれど仕事っぽいサウンドに聴こえるのである。刺激物や不純な成分のほとんどない作りである。

前のイエモンの音にはもっと“やな感じ”があった。悪意とまではいわないが、シリアスなふりをして心のなかでは舌を出している。そんな風に私には聴こえていた。何かをリスナーに向かって突きつけているような怖さがあったと思うのだが、この新曲ではその気配が薄い。

日本でロックをやるということは、色々な意味で取捨選択をせまられるということではないだろうか。いい換えれば「ロック論」を展開し続けることだ。楽曲の良し悪しとは別に、そこを眺めるのが私には面白い。音楽に隠された「ロックとは」というこだわりや気概をチェックするのである。

そこで思うのは幅である。どこからどこまでをロックとしてとらえるのか。恐ろしくせまい人もいれば、一切限定しない人もいる。一般的にいえば経験を積むほどに「何でもアリ」になってゆくことが多い。かのビートルズもそうだった。

ただ、そこには落とし穴もある。ロックをやる気分(ルビで闘争精神)の失せたことを、サウンドの拡張拡大に頼んで自己正当化してしまう可能性もあるからだ。昔GSが結果的に雲散霧消してしまったのもそれが原因だと私は思っている。その頃リアルタイムでGSを追っていたから自信を持っていえる。思うに、当初GSは“けわしく”日本なりのロックを築こうとしていた。“歌謡曲とは違うもの”を作ろうとしていた。それが少しずつなしくずされて行き、最後にはロックから見ても歌謡曲から見てもヘナチョコな音楽になってしまった。その場所に行きたくてそうなったのなら、それはそれで立派に“ロックスピリット”だろう。残念ながら現実はそうではない。多分単に志がすり減っただけである。それで安易に本来なら仮想敵である歌謡曲にすり寄っていった。GSは楽な道を選んで亡びた。

昔話になって申し訳ない。どうも今回のイエモンには、右(上)のようなGSの歴史を思い起こさせる何かがあるのだ。

ロックと歌謡曲は何が違うのか。私にいわせれば音楽としての「道徳」が違う。シナトラとシド・ヴィシャスの『マイウェイ』は別物であるという意味で。

要するに、もうちょっとイエモンはリスキーな世界を保持しつつ中年になるのでは、と期待していたら、案外普通だった、ということを私は書きたかったのですね。ロック者を貫き通すことは、本当にこの国では大変なことだな、とあらためて思った次第です。

週刊文春(2000年/文藝春秋)