馳星周さんが語るイエロー・モンキー

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feature(1998年/角川書店)に掲載された、作家の馳星周さんのコメントをご紹介します(以下に抜粋)。この記事は、パンチドランカーツアーで初めてイエロー・モンキーのライブを観た馳さんによるライブレポート。9月に行われたこのNHKホール公演の後、12月の日本武道館公演についても別雑誌に寄稿されています。また同雑誌では、1999年にロビン、ヒーセと「俺たちのヒーロー」というテーマで対談し、イエロー・モンキーを称賛されていました。

 

「ザ・イエロー・モンキーの楽曲はエッチだ。ライヴはそれ以上にエッチだった。素晴らしい。これ以上、求めることは何もない」
ふとしたおりに耳に飛び込んできた楽曲。それに魅かれて買ったCD。ああ、そこには、’70年代のブリティッシュ・ロック・バンドが体現していた、いかがわしくてゴージャスなセクシィさが満ち溢れていたのだ。そう。おれはクラッシュやダムドが好きだったが、T-REXも好きだったんだ!!

だから私は、疲れた身体に鞭打って、ライヴに足を運んだのだ。

ライヴ――素晴らしかった。わたしが期待していたとおり、いかがわしくて、チープで、ゴージャスで、セクシィなライヴだった。

吉井和哉がセクシィなのは知っていた。彼はバンドの顔であり、バンドの方向性を決めている。彼がセクシィでなければ、バンドがセクシィであることもない。

こんな例えはわかる人にしかわからないし、わからない人は激怒さえするかもしれないが、吉井和哉を見ていると、わたしは香港の年齢不詳のセクシィ・モンスター、レスリー・チャンを思いだしてしまう。存在そのものが発する色香――あるいはフェロモン、レスリーからも吉井和哉からも、同質のそうしたものが漂ってくる。

だから、吉井和哉がセクシィな存在であることは知っていた。実際、生で見る吉井和哉は、歌も動きもMCも、すべてがセクシィだった。

だが、彼以上にわたしを魅了したのは、ベースの廣瀬洋一だ。彼がセクシィであることも知っていた。だが、あれほどセクシィだとは思わなかった。

ライヴがはじまってすぐ、わたしの目は吉井和哉から廣瀬洋一に移り、そこで止まってしまった。彼のプレイはいかがわしかった。衣装はチープでゴージャスだった。彼の存在はセクシィだった。ホールを聾するギターやヴォーカルをはねのけて、正確に刻まれたビートはわたしの鼓膜を震わせた。

ああ、これだ。これがライヴの醍醐味だ。わたしはベースの音に合わせて身体を揺らし、ステージで繰り広げられるパフォーマンスに見入った。時間はまたたく間に過ぎ、すべてが終わった後では、わたしは呆然として余韻に浸っていた。心地よい疲れに、微笑みさえ浮かべていたかもしれない。そして、こう思ったのだ。

もっと前から、このバンドのライヴに足を運んでおけばよかった、と。

いかがわしさとチープさ、ゴージャスなセクシィさ――私の友人はかつてこう語った。ロックはエッチじゃなけりゃ、だめだ。もちろん、エッチというのはセクシィであるということだ。わたしは友人の意見に深く賛同した。

ザ・イエロー・モンキーの楽曲はエッチだ。ライヴはそれ以上にエッチだった。素晴らしい。これ以上、求めることは何もない。

ライヴが終わった後、わたしは渋谷の街で酒を飲んだ。耳の中では廣瀬洋一のベースの音がいつまでも谺(こだま)していた。

feature(1998年/角川書店)