MUSIC MAGAZINE(2014年/ミュージック・マガジン)に掲載された、レコーディング・エンジニア・山口州治さんのコメントをご紹介します(以下に抜粋)。山口さんはザ・ブルーハーツやエレファントカシマシ、ミッシェル・ガン・エレファントなど多くの著名なミュージシャンの音作りを担当されていて、イエロー・モンキーは3rdアルバム「jaguar hard pain」までの初期作品と「楽園」を手掛けられました。ロビンは、ミッチ・池田さんによるイエロー・モンキー写真集「SYN」の中で、山口さんのことをイエロー・モンキーがデビューしてから出会った「1人目の天才」と語っています。
「自分たちが日本でグラム・ロックを作っていくんだという気概に溢れていました」
――ありきたりですが、最初のレコーディングで感じたことを教えてください。「いい意味でマニアック、そして自分たちが日本でグラム・ロックを作っていくんだという気概に溢れていました。バンドの最初は、70年代のサウンドを確実に目指していました。歌詞の世界はじょじょに変わっていったんですけど、サウンド自体は、それほど変わっていないと思います。デヴィッド・ボウイのサウンドを聴いて、それをお手本にする場面もありました。その頃、3枚目まではわりと合議制だったんですよ。吉井くんが戦略的にプロデュースするようになったのは、その後ですね」
――ヴォーカルの吉井さんは当初、ご自分の声にコンプレックスがあって大変な苦労をしていたと聞きますが、実際は、どういう感じだったんでしょう?
「彼は最初、ベーシストでしたから。吉井君、特に1枚目は、注文がとても多くて、録音する音ではなく、モニターでコントロールして、歌いやすいバランスを作るように努力しましたね。声も思い通りに出せるようになっていくし、2枚目では、それほどではなかった。不安から自信へ変化していったのだと思います」
――しかし、山口さんはし4枚目からは外れていますよね。
「違うエンジニアとやるんだって、ガッカリしたことを覚えています。クビになったんですから(笑)。彼らは、マニアックなバンドからは離れて、戦略的にセールスを狙っていくという、大きな決断を取ったんだな、と思いました。それを明確に打ち出すには、エンジニアを変えるというのはいいことだと思いました。想像でしかないですけれど、たぶん、何か理解できていないところがあったとか、今までと違うものが欲しいとかいうことでしょうね。ぼくにはぼくのカラーがあるので、このままだと自分たちが求めるものができないと判断したんだろうと思います」
――そして、再び関わることになります。
「<楽園> (96年)のミックスが互いにとっての試金石だったんだろうと思うんですね。最初の3作の頃とは、彼らのスケール感がまったく違いましたね。見ている地平が違いました。ロンドンのエンジニアを日本に呼んで録音していて、ミックスだけ、ぼくが担当しました。ミックス前のトラックを聴いて…、ラフ・ミックスだけは聴いていたかもしれませんが、<SPARK>や<JAM>の大ヒットを経て、彼らがポピュラリティというか、非常にリスナーに向かって開かれていると感じたんです。彼らも変わったし、ぼくも変わったし、今だったらどうだろうか。もうグラム・ロックの枠はなくなっているのですから、彼らに気に入ってもらえないかもしれないけれど、自由にやろうと思って、自由にやらせてもらった。自由にできる喜びに溢れていたけれど、覚悟もしていました。もう吉井くんがプロデューサーですから、彼がこれでいこうと決めて、みんなは付いていくぞという明確なヴィジョンがありましたね。ぼくもそれに向かって邁進すればいい。とてもやりやすい状況で作業させて頂きました。そうだ、吉井くんはアイディアが豊富で、初期には、それを詰め込みすぎるところがあって。それで全体の印象がにじむようなことがあるじゃないですか。そういうところもなくなっていましたね」
MUSIC MAGAZINE
(2014年/ミュージックマガジン)より
インタビュー/伊藤亮